大判例

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最高裁判所大法廷 昭和36年(ク)419号 決定

抗告人

Y・A

右代理人

吉田勇三郎

相手方

Y・B

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

本件抗告の理由は別紙記載のとおりであり、これに対して当裁判所は次のように判断する。

憲法八二条は「裁判の対審および判決は、公開法廷でこれを行ふ」旨規定する。そして如何なる事項を公開の法廷における対審および判決によつて裁判すべきかについて、憲法は何ら規定を設けていない。しかし、法律上の実体的権利義務自体につき争があり、これを確定するには、公開の法廷における対審および判決によるべきものと解する。けだし、法律上の実体的権利義務自体を確定することが固有の司法権の主たる作用であり、かかる争訟を非訟事件手続により、決定の形式を以て裁判することは、前記憲法の規定を回避することになり、立法を以てしても許されざるところであると解すべきであるからである。

家事審判法九条一項乙類は、夫婦の同居その他夫婦間の協力扶助に関する事件を婚姻費用の分担、財産分与、扶養、遺産分割等の事件と共に、審判事項として審判手続により審判の形式を以て裁判すべき旨規定している。その趣旨とするところは、夫婦同居の義務その他前記の親族法、相続法上の権利義務は、多分に倫理的、道義的な要素を含む身分関係のものであるから、一般訴訟事件の如く当事者の対立抗争の形式による弁論主義によることを避け、先ず当事者の協議により解決せしめるため調停を試み、調停不成立の場合に審判手続に移し、非公開にて審理を進め、職権を以て事実の探知および必要な証拠調を行わしめるなど、訴訟事件に比し簡易迅速に処理せしめることとし、更に決定の一種である審判の形式により裁判せしめることが、かかる身分関係の事件の処理としてふさわしいと考えたものであると解する。しかし、前記同居義務等は多分に倫理的、道義的な要素を含むとはいえ、法律上の実体的権利義務であることは否定できないところであるから、かかる権利義務自体を終局的に確定するには公開の法廷における対審及び判決によつて為すべきものと解せられる(旧人事訴訟手続法〔家事審判法施行法による改正前のもの〕一条一項参照)。従つて前記の審判は夫婦同居の義務等の実体的権利義務自体を確定する趣旨のものではなく、これら実体的権利義務の存することを前提として、例えば夫婦の同居についていえば、その同居の時期、場所、態様等について具体的内容を定める処分であり、また必要に応じてこれに基づき給付を命ずる処分であると解するのが相当である。けだし、民法は同居の時期、場所、態様について一定の基準を規定していないのであるから、家庭裁判所が後見的立場から、合目的の見地に立つて、裁量権を行使してその具体的内容を形成することが必要であり、かかる裁判こそは、本質的に非訟事件の裁判であつて、公開の法廷における対審及び判決によつて為すことを要しないものであるからである。すなわち、家事審判法による審判は形成的効力を有し、また、これに基づき給付を命じた場合には、執行力ある債務名義と同一の効力を有するものであることは同法一五条の明定するところであるが、同法二五条三項の調停に代わる審判が確定した場合には、これに確定判決と同一の効力を認めているところより考察するときは、その他の審判については確定判決と同一の効力を認めない立法の趣旨と解せられる。然りとすれば、審判確定後は、審判の形成的効力については争いえないところであるが、その前提たる同居義務等自体については公開の法廷における対審及び判決を求める途が閉ざされているわけではない。従つて、同法の審判に関する規定は何ら憲法八二条、三二条に牴触するものとはいい難く、また、これに従つて為した原決定にも違憲の廉はない。それ故、違憲を主張する論旨は理由がなく、その余の論旨は原決定の違憲を主張するものではないから、特別抗告の理由にあたらない。

よつて民訴法八九条を適用し、主文のとおり決定する。

この裁判は、裁判官横田喜三郎、同入江俊郎、同奥野健一の補足意見、裁判官山田作之助、同横田正俊、同草鹿浅之介、同柏原語六、同田中二郎、同松田二郎、同岩田誠の意見があるほか、裁判官全員の一致した意見によるものである。

裁判官横田喜三郎、同入江俊郎、同奥野健一の補足意見は次のとおりである。

旧民法(昭和二二年法律二二二号による改正前の民法)上の夫婦の同居を目的とする訴は旧人事訴訟手続法(家事審判法施行法による改正前のもの)一条一項により、人事訴訟事件として地方裁判所に訴を提起すべく、裁判所は対審(口頭弁論)、公開の手続により、判決の形で裁判をなすべきものとされていた。現行民法七五二条の夫婦の同居の義務も旧民法のそれと本質的に異るものではない。即ち、夫婦の同居の義務は多分に倫理的、道義的な要素を含むといえ、法律上の実体的義務であつて、これが存否につき争があり、これを終局的に確定するには公開の法廷における対審及び判決によつて裁判すべきものである。とくに現行憲法は、個人の尊重とその権利の保障を一つの根本精神とし、そのために、何人も裁判を受ける権利を奪われないこと(三二条)、すべて司法権は司法裁判所に属し、特別裁判所の設置を許さないこと(七六条)、裁判の対審と判決は公開法廷で行なうこと(八二条)を定めている。さらに、この精神にそつて、現行の訴訟法は対審公開の原則の下に、当事者が攻撃防御を尽しく、厳格な証拠調を経た上で判決することとしている。これによつてはじめて真実が発見され、個人の権利が適正に保障されるからにほかならない。したがつて、いやしくも法律上の実体的権利義務の存否について争いがあれば、これを終局的に確定するには、司法裁判所において公開の法廷で対審の下に厳格な証拠調を統た上で判決することを要するのであり、そうでなければ、現行憲法の根本精神を無にするものといわなければならない。

然るところ、家事審判法九条一項乙類は、夫婦の同居その他夫婦間の協力扶助に関する事件を審判事項として非訟事件手続法に準ずる手続により非公開の手続で審理し、決定の形式を以て裁判すべきものと規定している。しかし、同条項にいう「夫婦の同居に関する処分」とは、夫婦の同居義務の存否を終局的に確定する趣旨のものではなく、夫婦の同居義務の存することを前提として、同居の具体的な態様、場所、時期等に関する処分であると解すべきである。けだし、民法は同居の具体的な態様、場所、時期等について一定の基準を規定していないのであるから、家庭裁判所がこれらの点について、裁量権により具体的にこれを形成する必要があり、かかる裁判は本質的に非訟事件の裁判であつて、公開の法廷における対審及び判決によることを要しないものであるからである。即ち、家事審判による処分には形成力は生じるが、その前提要件についての既判力はないと解する。この関係は、仮処分を命ずるには、一応本案の請求権の存することを前提として、仮処分の裁判をなすのであるが、その裁判が確定してもその基礎である請求権の存在は、本案の訴訟で確定されるものであると類似していると考える。若しこれに反し家事審判において、かかる形成的な処分の外に、基本たる同居の義務の存否までも終局的に確定するものとすれば、国民の裁判を受ける権利の剥奪となり憲法三二条、八二条に違反するものと言わざるを得ない。けだし、訴訟事件とするか非訟事件とするかは、単なる立法上の便宜の問題ではなく、実体的権利義務の存否の確定は飽くまで訴訟手続によるべききもので、これを回避するため非訟事件手続とすることは、前記憲法の規定上許されないところであるからである。(戦時民事特別法を想起すべきである。昭和三五年七月六日当裁判所大法廷決定(昭和二六年(ク)第一〇九号、民集第一四巻第九号一六五七頁)は戦時民事特別法一九条二項に関して、「若し性質上純然たる訴訟事件につき、当事者の意思いかんに拘らず終局的に、事実を確定し当事者の主張する権利義務の存否を確定するような裁判が、憲法所定の例外の場合を除き、公開の法廷における対審及び判決によつてなされないとするならば、それは憲法八二条に違反すると共に、同三二条が基本的人権として裁判請求権を認めた趣旨をも没却するものといわねばならない」と判示している)

これを要するに、夫婦の一方が故なく同居しない、又は同居させない場合に、他の一方から同居すべきこと又は同居させるべきことを求める争訟においては、同居義務の存否を確認し、義務ありとすればこれが履行を命ずる裁判をなすべきであつて、その性質は、純然たる訴訟事件であり、固より形成訴訟ではない。従つて、かかる請求権の存否を確定するには公開の手続による対審、判決によつて裁判すべきものであつて、このことは人事訴訟手続法一条一項から夫婦の同居を目的とする訴が削除された現在でも、なお一般民事訴訟として訴を提起し得るものと解すべきである。従つて、「夫婦ではないから同居の義務がない」とか「夫婦であるが、同居請求が権利濫用であるから、これに応ずる義務がない」とかといつたような夫婦関係の存否又は同居請求が権利濫用であるか否か等について争がある場合に、その争を単なる非訟事件手続により審理し、決定で終局的に裁判することは許されないものというべきである。このことは、遺産分割の審判が、相続権自体の有無に対し、既判力を有しないのと同様である。若し、家庭裁判所が同居義務なしとして申立を却下し、その審判が確定した場合に、これがため夫婦同居義務不存在が単なる非訟事件手続による決定により、終局的に確定されるものとすれば、前示大法廷判例の趣旨に反し、正に前記憲法の規定に反するものといわざるを得ないであろう。

叙上の理由により、家事審判法九条一項乙類の規定は憲法八二条、三二条に違反するものではなく、これに従つてした原決定も違憲ではない。

裁判官山田作之助の意見は次のとおりである。

一  多数意見ならびに横田(喜)、入江、奥野裁判官の補足意見によれば、憲法八二条が「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」と規定した趣旨は、法律上の実体的権利義務自体につき争いがあり、これを確定するには、公開法廷における対審及び判決によるべきであると解すべきであつて、夫婦の同居に関する争いにおいても、同居の権利義務自体につきこれを確定するには、公開裁判によるべきであるところ、本件家庭裁判所の為したる「相手方(夫)はその住居で申立人(妻)と同居しなければならない」とした審判は単に「夫の住所で同居しなければならない」とする同居の時期、場所についてのみ形成的効力を生ずるにとどまり、その前提である同居の義務ありや否やの点につき、当事者に不服があれば、更に通常裁判所に出訴し得るというのである。

しかし、家庭裁判所がする審判が、しかく不徹底な軽いものであると解すべきであろうか。本件事案についてみるに、相手方たる夫は、妻と同居する義務なきことを主張して争つてきたのに対し、家庭裁判所は「妻と同居すること」との審判を与えているのであつて、これ正しく、妻に同居請求権あることを認めた審判であると解せざるを得ない。多数意見に従えば、本件当事者の一方は同居の義務ありや否やの点について争いがあるとして更に通常裁判所に出訴することができるというのであるが。かかる解釈をすることは一般世人をして首肯させることが出来ないばかりでなく、家事紛争の処理を司る家庭裁判所のなす審判の権威と機能を全く阻害するものといわなくてはならない。

二  いうまでもなく、憲法八二条が「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」と規定する所以のものは、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」とする憲法三二条の規定と表裏相待ち、憲法が国民に保障している基本的人権ならびに自由の最後の保障は、結局裁判所における公正な裁判によつてなされるものであり、その裁判が公正に行なわれるためには、裁判を公開の法廷における対審手続により行なうことによつてこれを国民の直接の監視の下におくことが肝要である、というにほかならない。

しかして、この裁判の対審公開の原則は、その沿革よりすれば、もと刑事事件について採用され、数世紀にわたる人々の経験から、対審公開の手続によつてはじめて裁判の公正が保たれ人権の窮極の保護が全うせられるとの経験より得られた経験主義的原理であり、近代国家にあつては、あまねく、憲法的要請として採用されるに至つたものである。

三  しかし、今日においては人の知るとおり、裁判の公正に行なわれることの保障については、(1)裁判官の独立 (2)裁判官の身分の保障 (3)特別裁判所の禁止(4)行政機関による終審的裁判の禁止等の諸原則が、憲法上採用されているのであつて、裁判の対審公開の原則のみが、その唯一の保障ではなくなつたのである。

しかのみならず、近代社会の複雑化と進展に伴い、裁判の対象である権利義務の内容本質の如何によつては、衆人環視の下に公開の法廷における対審手続によつて裁判されることが、当事者のプライバシーを公開するような結果を生じ、また、公開の法廷では容易に真実が述べられないおそれがある等却つてその当事者たる国民の人権を尊重しない結果となる例外的場合も生じてきていることも事実であつて、各国憲法を比較する観点よりすれば、裁判の対審公開の原則は幾分緩和されつつあるのである。

四  しかして、わが憲法八二条も、全部の裁判を必ず公開裁判で行うべしとは規定していない。同条第二項が、(1)政治犯罪 (2)出版に関する犯罪 (3)国民の基本的権利が問題となつている事件については常に対審公開の裁判によるべしと定めている点に鑑みれば、その他の事件については、原則として対審公開の裁判でなされることが要請されているのであるはあるが、例外を絶対認めないと解すべきではない。

五  然らば如何なる場合に例外を認め得るやというに、もともと裁判の対審公開の原則は既に詳述した如く対審公開の手続によつてはじめて裁判が公正に行われることを期待し、因つてその関係者の権利を擁護せんとするものであるから若しその争われる権利義務の本質上、公開の法廷における対審手続によつて裁判されることにより却つてその人の権利の擁護にならないと認められる場合には、必ずしも裁判公開の原則を固執する要なきものと解するを相当とする。

六  本件の如く家事審判法が家庭裁判所の審判事件として非公開の審判手続により審判すべきものと定めている夫婦間の同居に関する争いは、その内容たる権利義務自体の本質よりして正に裁判の対審公開の原則に親しまない例外の事例に該当するものと解するのを相当とする。けだし家族団体員相互の間の諸権利義務、就中夫婦同居請求を認容するか否かについては、夫婦間の微妙なる関係のほか、家族間の信頼関係等に影響される処多く、その内容も多岐多様にして、これを具体的に確定するにも、社会的、倫理的、経済的見地に立つて、国家が後見的隠密裡に介入すべきもの多く、裁判官の裁量に基づきこれを定める必要も多々あるのであり、国民一般も亦公開対審の場でこれが争いを決することを必ずしも好んではいないのが実情であるから、斯る権利義務(所謂家団における団体的権利義務)に関する裁判を、家庭裁判所の審判事件として非公開対審でなすこととすることは、この権利の本質からする当然の帰結であつて、毫も憲法八二条に違反するものというを得ない。そして、如何なる権利義務関係が憲法八二条の対審公開の裁判に親しまないものであるかは、具体的法律関係につき、まず、立法問題として処遇さるべく、しかも、その立法につき、その権利の本質が争われたときは最高裁判所の最終判決によつて解決さるべきものと解すべきである。

叙上のとおり、夫婦同居請求は非訟事件手続法を準用する非公開の審判手続によるべき旨定める家事審判法の規定は合憲であり、従つて本件審判を是認した原決定が違憲でないことは、多数意見とその結論を同じくするけれども、その理由を異にするものであり、また、夫婦同居の権利義務自体について更に訴訟を以て争いうる旨の多数意見には、にわかに賛同し難い。

裁判官田中二郎の意見は次のとおりである。

私の意見は、本件抗告はこれを棄却すべきものとする結論において多数意見と同じであるが、その理由を異にする。多数意見によれば、憲法八二条に「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」と規定した趣旨は、法律上の実体的権利義務自体につき争がある場合において、これを確定するには、公開の法廷における対審及び判決によるべきものと解すべきであつて、夫婦の同居義務に関する争であつても、同居義務自体は法律上の実体的権利義務であることは否定できないところであるから、かかる権利義務自体を終局的に確定するには公開の法廷における対審及び判決によつてなすべきものである、という。かような見地に立つて、多数意見は、本件家庭裁判所のなした審判は、夫婦同居の義務等の実体的権利義務自体を確定する趣旨のものではなく、これらの実体的権利義務の存することを前提として、その同居の時期・場所・態様等について具体的内容を定める処分であつて、審判確定後は、審判の形成的効力については争いえないところであるが、その前提たる同居義務等自体については公開の法廷における対審及び判決を求める途が閉ざされているわけではないから、家事審判法の審判に関する規定は、何ら憲法八二条、三二条に牴触するものではない、というのである。

これに対し、私は、夫婦の同居義務に関する民法の規定の改正並びに家事審判制度創設の経緯およびその趣旨に鑑み、夫婦関係の存続を前提とする家事審判法による夫婦の同居に関する審判そのものについては――離婚又は婚姻無効を理由とする同居義務の不存在を主張する場合を別として――公開の法廷における対審及び判決を求める途は閉ざされているものと解すべきであつて、このような制度の建前をとつたからといつて、そのこと自体が決して憲法八二条および三二条に違反するものではないと考えるのである。その理由は、次のとおりである。

一  夫婦が一般的抽象的に同居義務を有することは、民法七五二条の明定するところであつて、夫婦関係の存続を前提とする限り、夫婦の同居義務等自体については、あえて訴訟により、裁判所の確定をまつまでもない。問題になるのは、この同居義務の存在を前提として、個々の事案に即し、その同居の場所・時期・態様等について、その具体的内容はどのようであるべきかの点である。ところが、これらの点については、民法には何らの基準を定めておらず、他にその基準を定めた規定もない。それは、一定の基準を設け、これによつて画一的な解決方法を講ずることが、事柄の性質上、必ずしも適当とはいえないからである。家事審判法がこれらの事件を家事審判事項としているのは、このような事件の特殊性――夫婦共同生活体の内部の倫理的・道義的要素を多分にもつた、従つてまたプライバシーを尊重確保する必要性が大きいといつた特殊性――に鑑み、家庭裁判所が、後見的立場から、合目的見地に立ち、その裁量権を行使して具体的事案に即した妥当な解決を図るようにするためにほかならない。従つて、かような家事審判法による夫婦同居義務に関する審判は、一種の形成処分の性質を有するものであつて、現行法全体の建前は、この種の問題の終局的解決を家庭裁判所の形成的作用に期待しているものと解すべきである。

ところで、多数意見は、右審判が右のような性質を有することを認めながら、それとは別に、夫婦同居義務自体に関する紛争があり得るものとし、それは法律上の実体的権利義務に関する紛争であるから、憲法上、通常訴訟の途が閉ざされてはならないというのである。しかし、いつたい、多数意見のいうように、夫婦関係の存続を前提としつつ、夫婦同居義務自体等に関する紛争と夫婦同居義務の具体的内容、すなわち、その場所・時期・態様等に関する紛争とを切り離し、これを別個のものとして明確に区別して考えることができるであろうか。横田(喜)、入江、奥野各裁判官の補足意見は、「夫婦でないから同居の義務がない」とか、「夫婦であるが、同居請求が権利濫用であるから、これに応ずる義務がない」というような場合を「同居義務自体」の例としてあげ、このような場合には、当然、通常訴訟の途が開かれていなければならないとするようである。ところで、右の引例のうち、「夫婦でないから同居義務がない」というのは、夫婦関係の存続を前提とするものではなく、離婚・婚姻無効を主張する等夫婦関係の存在そのものを争うか、その不存在を前提として、同居義務の不存在を主張するものであつて、それが通常訴訟の対象となることは、私も決して否定するわけではない。夫婦関係の不存在を主張して争う場合に、それが通常訴訟の対象となることはもちろんであり、その主張が肯認されれば、同居義務が否定されることは当然である。次に他の一つの例として引用される「夫婦であるが、同居請求が権利濫用であるから、これに応ずる義務がない」というのは、夫婦同居義務の存在を前提としつつ、同居請求をする場合であるから、前の例とは全く事情を異にする。この事例の同居請求は、その実質は、同居義務履行の具体的態様に関するものと解すべきであつて、同居請求に理由があるかどうかは、正に審判によつて最終的に決定すべきであると考える。結果的に、例えば精神病者である夫婦の一方からの同居請求の場合に、具体的な事態のもとでは、その請求は権利濫用であるとして、相手方に対し、抽象的同居義務はあるが、具体的同居義務(同居の態様)がない、という決定を下すことはあり得るであろうが、それは、同居義務の存在そのものを前提としながら、具体的事案に即しての同居義務履行の一態様として、例えば病気療養中、一時的に同居する必要がないという裁量的形成処分にほかならないのである。従つて請求者の精神病が治癒した暁には、相手方の本来の同居義務が回復することは当然である。そもそも、夫婦関係の存続を前提としながら、終局的に同居義務の不存在の確認を訴訟によつて求めるがごときは、民法の予定しないところであり、そのような通常訴訟を認めるべき合理的根拠は見出しがたいように思う。

二  そもそも、一般の民事事件の裁判は、当事者間に権利義務に関する具体的な紛争のある場合に、一般的抽象的に定められた法規――慣習法等を否定する趣旨ではない――を具体的事件に適用し、何が正しい法であるかを宣言する作用(Rechtsprechung)であり、このような裁判について、憲法は、公開の原則及び対審構造を保障しているのである。ところが、夫婦同居義務の具体的内容に関する紛争については、さきに述べたように、適用すべき法の一般的基準の定めがあるわけではなく、もつぱら家庭裁判所の形式的作用に委ね、その後見的立場における広範かつ自由な裁量によつて、具体的に衡平・妥当な解決をもたらすことを期しているわけである。従つて家庭裁判所の行なう審判は、合目的性ないし具体的衡平を理念とする一種の形成的作用にほかならない。このような典型的な非訟事件の審判は、上述の法の宣言作用たる裁判とは、元来、その性質を異にするのであるから、この種の事件の処理について、一般の民事事件や刑事事件の裁判と異なつて、公開の原則及び対審構造が保障されていないからといつて、直ちに違憲といい得ないことはいうまでもないない。それは、このような家庭裁判所の行なう審判は、さきに述べたように、憲法で公開・対審の原則の保障されている裁判そのものには当らないと解すべきであるからである。

もとより、いわゆる非訟事件のすべてが、右に述べた意味での裁判に当らないというわけではない。立法政策的に非訟事件とされることによつて、具体的な権利義務に関する紛争のすべてが通常訴訟に親しまなくなるというわけでもない。法律上、非訟事件とされているものについても、その事件の性質・内容によつて、通常訴訟の対象とされるべきかどうかの判断がなされなくてはならない。家事審判法九条一項乙類に掲げる各事項についても、通常訴訟が許されるかどうかについて、具体的に検討する必要があり終局的には、判例法によつて解決されるべき問題である。

夫婦同居義務に関する紛争であつても、さきに述べたように、婚姻の無効又は離婚を主張し、婚姻関係の不存在を前提として、同居義務の不存在を主張する場合には、通常訴訟によつてこれを争うことを妨げるものではない。しかし、夫婦関係の存続を前提とする以上、公開・対審の原則が保障された裁判の対象となるべき具体的な権利義務に関する紛争は生ずる余地はなく、ただ、夫婦の同居義務履行の場所・時期・態様等の具体的内容に関する紛争――具体的事情のもとに同居義務を一時的に拒否するのも、その義務履行の一態様にすぎない――のみが予想されるのであつて、これらの紛争は、事柄の性質からいつて、倫理的な夫婦共同生活体の内部の紛争であり、プライバシーの尊重を必要とする問題であるから、これを公開の法廷に曝すことは適当でなく、また、それは、当事者の対立抗争の法構造である対審構造のもとにおける裁判になじまない性質のものというべきである。従つて、このような典型的な非訟事件については、通常の民事訴訟事件と区別して、これに特別の家事審判制度を設け、特別の取扱いを認める合理的根拠は十分に存在するのであつて、このような制度や特別の取扱いをしたからといつて、憲法の趣旨に反するものとするいわれは毛頭ないものというべきである。

これを要するに、多数意見は、夫婦同居義務に関する家庭裁判所の審判の意義及び性質についての正しい理解を欠き、家庭裁判所創設の意義を没却する虞れがあるものというべきであつて、到底、賛成することができない。

裁判官横田正俊、同柏原語六は、裁判官田中二郎の右意見に同調する。

裁判官松田二郎の意見は、次のとおりである。

(一)  私は家事審判法九条一項乙類一号の夫婦の同居に関する審判は、憲法三二条、八二条に違反しないものと解するのであつて、この限りにおいて、多数意見と見解を同じくする。

しかしながら、その理論的根拠において、私は多数意見と全く異る見地に立つものである。すなわち、多数意見は、同居に関する家事審判とは別個に、同居義務の実体的権利義務自体を終局的に確定するためには、公開の法廷における対審および判決による訴訟の途が開かれていると主張し、このように解することによつて、右審判が前記憲法の条項に違反しないことを理由付けようとする。これに対して、私はそのような訴訟による途が開かれていることを否定するものなのである。私の見解によれば、夫婦同居に関する事項は、本質上、非訟事件に属するものであり、従つて非訟手続たる家事審判法の審判によることは、理論上当然のことなのである。換言すれば、本質上、非訟事件たるものを非訟手続のみによらしめても、何第違憲の問題を生ずる余地すらないのである。

(二)  思うに、夫婦間の婚姻関係は、法律的であるとともに倫理的であるところの生活協同体であり、他の法域におけるよりも遙かに高度に、法と道徳との二要素が密接に関連しているのである。このことは、当然に婚姻の法律関係を特徴づけるのである。そして今や新憲法の両性の本質的平等の理念の下で、婚姻は夫婦相互の協力により自主的に営まれることが期待されているのである(憲法二四条参照)。従つて、それは国家機関たる裁判所による訴訟的解決になじまない法域といえよう。たとえば夫婦間の契約は、婚姻中、何時でも第三者の権利を害しない限り、夫婦の一方からこれを取消し得ると規定していることも(民法七五四条)、夫婦間の契約に基づく争を訴訟によつて解決することは妥当でないとすることのあらわれである。要するに、婚姻関係については、その存続を前提とする限り、裁判所はただ後見的の立場において、これに関与するに止まるのである。ただ、この関係を解消せしめようとする離婚については、訴訟が認められているのである。

叙上の理由により、婚姻関係に関する事項――本件における同居義務に関する事項も含めて――については、婚姻の存続を前提とする限り、裁判所は民事訴訟手続と異るところの手続によつてこれに関与するに止まるべきものである。しかして、この場合における客観的真実発見の必要は、弁論主義を採ることを許さなくなり、また夫婦共同生活に関するプライバシーの尊重は、手続の非公開を要請することとなるのである。しかしてこれに適合する手続が、すなわち非訟事件としての性質を有する家事審判法である。

(三)  しかるに、多数意見に賛成する横田(喜)、入江、奥野三裁判官は、補足意見として次のごとく主張される。すなわち、旧人事訴訟手続法(家事審判法施行法による改正前のもの)一条一項が「夫婦の同居を目的とする訴」を認めていたことを援用して、夫婦同居義務の権利義務自体を終局的に確定するには、公開の法廷における対審および判決によるべきであるとの主張の根拠とされるのである。

しかしながら

(1)  新憲法下で家庭裁判所が新たに設立され、家事審判法が夫婦同居に関する事項について審判を行なうに至つたことを忘るべきではない。旧人事訴訟手続法に規定された右の訴は、既に廃止されて、今や存在しない過去のものたるに過ぎないのである。

(2)  そればかりでなく旧人事訴訟手続法の下においてすら、夫婦同居請求の訴を提起し、原告が勝訴し、その判決が確定した場合においても、相手方に対して、何等、直接にも間接にもその履行を強制する方法がなかつたことは(大審院昭和五年(ク)第八九〇号同年九月三〇日決定、大審院判例集九巻一一号九二六頁参照)、想起さるべきである。すなわち、この場合、国家機関たる裁判所は夫婦間の「訴訟」に介入しても、終局的には何等その介入の効果を収め得なかつたことを示しているからである。換言すれば、人事訴訟として「夫婦の同居を目的とする訴」なるものを認めたことが、無意味であつたことを示すに外ならない。

(3)  既に述べたように、多数意見は「夫婦同居の義務の実体的権利義務自体」という概念を構成し、それを終局的に確定するには公開の法廷における対審および判決によるべきであると強調するのである。しかし、夫婦同居についての法律関係自体は、民法七五二条そのものが明定するところであり、敢て再びこれを訴訟によつて確定することを要しないのである。そして同居に関し夫婦間に協議の調わないとき、この民法の定めるところに基づいて、家庭裁判所は具体的事件につき諸般の事情を斟酌して具体的な態様を形成するのである。前示家事審判はこのような形成的作用を有する処分なのである。

(四)  さらに多数意見のいうような訴訟を認めるときは、きわめて多くの疑問を生じ、裁判実務を混乱に導くものと思われる。

(1)  もしこのような訴を許すならば、家庭裁判所の夫婦同居に関する審判について不服の者は、民事訴訟を提起するであろう(家庭裁判所の審判をまたず、その前において、民事訴訟を提起するものもあろう)。このことは、徒に多くの民事訴訟を誘発することとなろう。

(2)  右のような訴と家事審判とはどのような関係に立つのであろうか。この点につき、横田(喜)、入江、奥野の三裁判官は、民事訴訟による裁判と家事審判との関係を本案訴訟と仮処分手続との関係に類似するものとされるのである。しかし、このような見解によれば、夫婦同居の事項に関して、家庭裁判所は何等固有の権限を有しないこととなろう。けだし、この見解によれば家庭裁判所は単に仮処分的の機能のみを行うに過ぎないものとなるからである。そして家庭裁判所の審判は、常に民事訴訟によつて覆される可能性を有するものとなるからである。これは新憲法下で家庭裁判所の設立された意義を没却するものであろう。

(3)  多数意見の主張するごとき訴訟によつて、夫婦同居義務の存在または不存在の判決が確定したと仮定しよう。そしてもしこの判決確定後、これに反する事情が生じたときは、多数意見はいかにこれを処理するのであろうか。既にこの点の既判力が生じているからである。しかし、私のように同居義務について家事審判のみを認める以上、その審判には既判力がないから、事情変更を理由として、その審判の取消、変更を認めるに何等の妨げを見ないのである。そしてこのような点にこそ、夫婦同居義務に関する事項が非訟事件たる所以を見るのである。

(4)  もし、夫婦同居についての訴が許されるとしても、現行法上このような訴はもはや人事訴訟手続法に規定されていないことを忘るべきでない。従つて、このような訴は民事訴訟法によらざるを得ないこととなるのであろう。そうであるならば、この訴訟において請求の認諾(民訴二〇三条)が認められ、擬制自白(民訴一四〇条一項本文)の規定が適用されるのであろうか。しかし、このような結論が失当なことは多言を俟たないのである。

(5)  多数意見のような訴が認められるならば、この訴を本案とする仮処分が認められることとなろう(旧人事訴訟手続法一六条参照)。それは果していかなる内容の仮処分なのであろうか。夫婦同居に関する審判と同居に関する訴の仮処分とは、いかなる関係に立つのであろうか。これらの疑問に対して、多数意見はすべからく答えるべきであるにかかわらず、何等述べるところがないのである。

(五)  いうまでもなく、ある事項を訴訟事件とするか非訟事件とするかは、決して、単なる立法上の便宜の問題でないのであつて、実質上訴訟事件たるものを非訟事件とすることは、憲法三二条、八二条を回避するものとして許されないのである。しかし、本質上、非訟事件の性質を有するものを非訟手続によらしめることは、固より当然であり、何等憲法の右条項に反しないことは、いうまでもない。しかして新憲法下における夫婦同居に関する事項は正にこれに該当するのであつて、その性質が非訟事件に属し、民事訴訟になじまないものであるから、現行制度はこの本質に即して、その処理を非訟手続たる家事審判法に委ねているのである。多数意見はこの本質を正解しないものと思われる。そればかりでなく、その理論的誤りの結果として、裁判運営の上に、多大の支障を生ぜしめるに至るのである。

要するに、叙上の点からして、私は多数意見の理由に対し、反対せざるを得ないのである。

裁判官草鹿浅之介は、裁判官松田二郎の右意見に同調する。

裁判官岩田誠の意見は次のとおりである。

私も本件抗告は、これを棄却すべきものとする結論において多数意見と同じであるが、夫婦関係の存続を前提とする限り、夫婦の同居義務存否を確定する訴訟を裁判所に提起することは許されず、夫婦の同居に関する処分は専ら家庭裁判所の審判によるべきであり、又かく解したからといつて、家庭裁判所の右審判が憲法三二条、八二条に遠反するものではないと思料する。そしてその理由は田中裁判官の意見と同一であるから、これを引用する。(横田喜三郎 入江俊郎 奥野健一 石坂修一 山田作之助 五鬼上堅磐 横田正俊 草鹿浅之介 長部謹吾 城戸芳彦 石田和外 柏原語六 田中二郎 松田二郎 岩田誠)

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